石谷山の歴史
石谷山とは
山香料理処 竹取物語は、脊振山系の南東に位置する「
石谷山は、その名の通り石が多く谷深い山で、緑豊かな自然に包まれた美しい山です。
山の中腹には、英彦山山伏の修験場として使われたという
記録によれば、室町時代の末にこの地を訪れた僧が、その滝の美しさと山の清らかさに感じ入って、ここに草庵をつくったといわれ、かつて霊場であった歴史を私達に感じさせてくれます。
水車と製粉業の歴史
石谷山には比較的水量の豊富な
現在のように電気が動力源の主流となる前、生活に必要な米を精米したり、粉を製粉したりする動力源として、水車は非常に重要な役割を担っていました。
江戸時代、当店が建つ立石町という地域には、佐賀領で最も多い13軒もの水車があり、明治の頃には、遠くの村々からも人が訪れ、この地の水車を利用していたといいます。
このような背景から、水車の利用と引き換えに手数料を得るという形で、水車を使った「水車製粉業」が成立し始め、明治前中期から大正初期には、これによってかなりの収入を得ていたことが記録されています。
水車は人々の生活を彩り、大いに賑わいを見せましたが、年代が進むと製粉業も電力化が進み、次第に水車が使われることはなくなってきました。
実際このような水車製粉業が営まれていたのも大正時代の頃までで、水車自体も昭和40年代初頭には姿を消し、残念ながら現在ではその痕跡を残しているのみです。
今に伝わる水車の名残
かつては下流から数えて「一番目」から「十三番目」までの水車があり、それぞれ「いちばんめ」「じゅうさんばんめ」といった呼び名で呼ばれ親しまれてきました。
現在水車そのものは残っていませんが、水車がなくなった今でもその呼び名だけは残っており、当店も「九番目」の水車小屋があった場所に建っています。
庭には当時の水車に使われていた歯車を見ることが出来ますので、「くばんめ」の名残を味わってみてはいかがでしょうか。
石谷山の伝説
石谷山にはいくつかの伝説めいた昔話が残されています。
ここでは「鬼の爪跡石」と「金の水」という二つのお話をご紹介いたします。
鬼の爪跡石伝説
むかしむかし、石谷山には力自慢の赤鬼が住んでいました。
怪力にものをいわせる赤鬼は、川の流れをせき止めたり山桃を引き抜いたりと悪さをしては麓の村人を困らせていたといいます。
そこである日、考えた村人達は赤鬼に提案をもちかけました。
「お前は力自慢だそうだが、ならばこの大石を持ち上げることは出来るか?」
「そのくらい、わしにかかれば簡単なことだ」
「では、持ち上げることが出来なければ石谷山を立ち去れ」
こうしてついに赤鬼は、村人が見守る中、大石を持ち上げることになったのです。
しかし、いくら赤鬼が力を入れても、石は根を張ったようにピクリとも動きません。ムキになった赤鬼はさらに顔を赤くして力を入れましたが、石に爪が食い込むばかりで、結局石を持ち上げることはできませんでした。
その結果、赤鬼は約束どおり石谷山を去ることになり、ついに村人には平和が訪れたのです。
この時、村人を救った大きな石は、鬼の爪跡を残したまま、いまも石谷山に残っています。
金の水伝説
むかしむかし、石谷山の山里の奥深くに、一人の青年と、その父親が住んでいました。
父は歳をとるにつれ病気がちとなり、孝行者の一人息子は、病によく効くという薬草を探して毎日山を歩いていました。
ある日、いつものように薬草を探していた息子は小さな池にたどり着きました。歩き疲れた息子は、そのほとりに身体を横たえ、うつらうつらと居眠りをしてしまいます。
すると驚いたことに、息子の夢の中に、まばゆい金色の観音様が現われ、こう告げたのです。
「この池の水を飲ませれば、お前が探している薬草よりも勝る効き目があるであろう」
驚いて飛び起きた息子は、池の水を汲み、喜び勇んで父の元へ帰っていきました。
その日より、父の病気はみるみる回復していき、ついには長寿を全うすることが出来たといいます。
それから、誰ともなく、その池のことを「金の水」と呼ぶようになりました。